一滑入魂

18FEB2009/何故に滑るのか

「何故に滑るのか」もう一度己に問うてみる。それは単純で、素朴な自分自身の行動 原点への問いかけだ。

「楽しいから」、「滑るのが好きだから」、「景色が綺麗だから」・・・それで良 い。“否定を試みよう”とか“議論を仕掛よう”などという気は、微塵もない。 事 実、それらは自分の中にも実に素直にある。

山岳滑走は、安全管理されたゲレンデとは違い、一面の手付かずの自然が相手であり 常に危険と隣り合わせであり、全てが自己責任の世界だ。

その世界は、深々と降り積もった雪や、強風によって吹き付けられた雪で丹念に化粧 されている。それは、丁寧に木々の枝一本一本を、そしてそれらを包括する森を、さ らにはそれさえも呑み込んだ巨大な山陵にも及ぶ広大なものだ。そこに踏み込むに は、やはりお気楽とはいかない。

ハイクアップの途中、たまに立ち止まり見上げれば、白き木々の間に空が広がってい る。それが灰色なら重圧感を、青なら宇宙まで突き抜けた開放感を伴って、観る者の 眼球奥底に入ってくる。そして多くの場合刻々と変化するのだ。いずれにしても、白 との対比が生み出す世界は、どんな小説家でも表現できないであろうと思う。それ程 の荘厳なる美を突き付けてくるのだ。

特に山頂は、例え苦しく辛い行程を経て来たとしても一気にその労が報われる約束の 場所だ。それぞれがこの場に至るまで過ごして来た、準備や行程やら、とにかく色々 な時間など、内に秘めて来た想いが、「おー」とか「やったなあ」とか様様な声とな り吐き出される。そういう歓喜の時空間がそこには満ちている。

2時間も、3時間も、時には6時間もかけて歩いて目指す滑降地点に立つことに、何 の意味があるのか。明らかな一つの答えが、このハイクアップと山頂からの景色であ ることは、山岳滑走者の何人もが否定しえない共通の想いだろう。だから「何故に滑 るのか・・・」は、「何故にその白き地を訪れるのか・・・」とも言える。この神々 しい世界が、この世に存在していることを知らずに、この世に存在するなど、「はは はっ、俺には、ありえない」と首を振る。

滑る身支度を整えはじめると、気が引き締まって来て、適度な緊張感に包まれる。そ れも心地良い。もう時機オサラバのこの場所を慈しむように見渡すと、どの同行者の 面構えも頼もしくそして凛々しい顔になっている。「俺はこの顔を見にきてるのか な」と想う程に、それはサムライだ。

見渡す限りの白き世界、眼下には、壁のような雪面が自分の出を待ってる。
「IT’S SHOW TIME!」
飛び出す瞬間、脳裏にあるのは、鷲の姿だ。翼を広げ絶壁から飛び出して行く、が次 の瞬間には、翼をすぼめ獲物を目がけ落下するがの如く、その加速に対応する姿勢に 移行している。流れる景色、刻々と変化する雪面に、叱咤と妥協の反復、自己陶酔と 恐怖との同居を覚えながら、やがて小さな冒険を終える。

全身全霊を傾け、心技体の渾然一致の世界で滑る時、そこに何が観えるのか。
己と対峙する瞬間瞬間の真剣勝負の世界がそこには確実にある。
生死をかけた戦いの場を駆け抜ける武士に通じる世界。
命の鼓動を呼吸を感じに、筋肉の躍動に感じ、そして血が激す感覚。
滑雪道とも言える世界が待っている。

そして蒼き光を観る、それは己の魂との出会いなのだ。

もう一度己に問うてみよ。「我、何故に滑るのか」。

 


16FEB2009/

魂を込めて滑るんだから、さぞかし上手に滑れるんでしょうねって思われるすかね。実は、結構下手糞だ。 男は、弁解などしないというが、曲りなのでしてみたい。

テレマークのブーツだから、当然テレマークのビンディングなのだが、板はアルペン、バインディング装着位置もアルペンだから、要するに、はなから上手に滑るなんて希望が下手をこいている。無理な話しなのだ。
呆れますね

テレマーカーなのかも微妙だ。コブ滑りも面白いし、アルペンスタイルで両脚にGが掛る滑りも大好きだし、カービングターンも面白い。フリースキーが今は楽しい。でもブーツはテレマーク、踵は固定されてない。まったくふざけてると自分でもいます
やはり臍が曲がってる? ハハハ、そうです、相当に曲がっている。

山もどうだろなあ。好きって言葉は、微妙に、感覚的に違う。こりゃあ大きな誤解を生みそうだ。なので少し書くことにする。

拙者にとっての山ってのは、大きな意味で森羅万象の神々に身を置くことができる場だ。そういう意味で行く、頂きから見る風景に美しいと感じる。それは神との出逢いだ。もちろん木や植物や虫などそこに生きるもの、そして岩や水などの生きていないもの全てを包括しての山であり山々で、それが神なのだ、と思う。

昔はそこらじゅう、身近なところで森羅万象の八百万の神々を感じることができた。今はなかなかない。

同じように出遭いがない。それは森羅万象の、いやもっと平ったく言えば自然のような自分を取り巻く環境もだけもっとも大事なこと、自分自身、己との出逢いの場がなくなってしまった。

ほんとうの自分自身、己は何者なのか。その答え探ししてますかね。いや難しい話しになってきたので、そろそろ退散つかまつりまする。

一滑入魂とは、自分の魂との出逢う方法のひとつの手段であり、自分は、それをやってるつうだけのことで、それ以上もそれ以下もない。